− 労働はほんらい「贈りもの」である。すでに受けとった「贈りもの」に対する反対給付の債務履行なのである*1 −
自分がこうなりたいと執着するものが出来てからずっと思っていたことを、わかりやすく明確に感傷を入れず表現していた。なぜ目の前に他者の手によって表現されているのだろうと思ったほどに。そしてその瞬間、自分に足りないものをも認識させられるが。
さらに、上記の一文の続きにもはっとしたのだ。エロスのくだり・・官能をどこかに置き忘れてきたようないまの私には現実感が伴わないのでなんなんだが、エロスを愛にして読み変えてみるとそれは表現したかったものそのものであるのではないかと思った。(けれど私がこの方の文章を正確に理解しているのかは甚だ疑問である。失礼を承知で自分用メモのために引用させて頂いた)
なんと言えばよいのだろう。それを読んだ時、安堵したというのでもない。綺麗事でなくそれはそこに存在するものだと知っていてもわたしは感傷抜きに表現出来なかった。だからその表現にとても納得した。
感傷を抜けると冷静にもなる。傾いた天秤が見えるなら、もしかしたら勝手に債務ではない義務を増やしていただけかもしれない。

*1: ブログ『内田樹の研究室』2007.02.11エントリー『l'un pour l'autre』 より引用